漢方薬・生薬

遥か昔に中国から伝わった漢方の歴史を分かりやすく解説!

漢方薬を始めとした薬膳や鍼灸、養生、整体など私たちの生活に何気なく溶け込んでいる漢方医学。

遥か昔に中国から伝わったと言われていますが、その詳細を知っている人は極僅かでしょう。

健康に良いと言われ、西洋医学でも解決が出来ない未病にも効果がある漢方は一体どのような歴史を歩んできたのか気になりますよね。

今回は漢方の歴史についてご紹介します。

漢方ってどういうもの?

漢方
まずは漢方がどういうものなのか知りましょう。

漢方という漢字を紐解いていくと「漢」は昔の中国である漢土を示し、「方」は治療方法を示しています。

つまり漢方は中国の治療方法というわけですね。

漢方の特徴としては自然を第一に考えていて、人間もこの自然の一部であると言う考えの元で漢方が成り立っています。

同じ症状でも同じ人はいないわけですから、その人の体質・年齢・性別など事細かに把握し、その人のための治療をするのが漢方です。

まさにオーダーメイド医療ともいえる漢方は様々な応用を可能としています。

次は漢方の歴史をご紹介します。

漢方の起源について

歴史
漢方の誕生である起源は中国の古典「黄帝内経素問の異法方宜論」に記述がありました。

中国は昔から広大な土地で様々な地区・民族が暮らしていました。

東西南北とその中心とした地域では気候も風土も環境も違う中で独自の治療法が生まれました。

これが今の漢方の大元になったものです。

そして時代は流れ、それぞれの地域で独自に発展した医療は書物として纏められます。

次はこの書物について詳しく解説します。

黄帝内経(こうていだいけい)

黄帝内経は現存する中国最古の医学書と言われていて、前漢時代に全18巻造られたと伝えられています。

黄帝内経では主に鍼灸医学をメインとして書かれていて、鍼灸医学が誕生した中国の北の黄河文化圏を記述しています。

黄河文化圏を形成したのは遊牧民で、気候変動の激しい乾燥した不毛な大地を転々としていました。

そのため漢方薬のように植物を育てたり採取することはほぼ不可能で、身近にあった石器などで刺激を加えてうっ血を除いていたと考えられています。

この技術が時代の流れと共に洗練されて行き、身体の各所にある「ツボ」を発見します。

金属文化が栄えると細い金属製の針を使用した鍼治療が始まり、ツボを刺激する今の原型となる形が完成します。

そしてツボを刺激している中でツボとツボの間を結ぶ「経絡(けいらく)」というものを発見します。

この発見をしたのは黄河文化圏の遊牧民のみで、他の地域では見られない発見でした。

次第に厳しい自然環境で生活している遊牧民たちは自然現象に敏感になります。

こうした経験から遊牧民は自然と人体は関係していると考え、自然哲学へと発展します。

そして大宇宙と小宇宙の対比を説いている「天人合一説」から発展して、、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つのカテゴリに分類する「陰陽論」となります。

更に万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説「五行説」まで発展しました。

黄帝内経はまさに漢方の自然哲学を記した書物というわけです。

神農本草経(しんのうほんぞうきょう)

中国医学における三大古典の1つに数えられている本で、中国最古の薬物学書です。

本の題名にも使われている神農とは古代中国で言い伝えられている神で、その伝説は諸説あります。

神農が毒に当たるたびに薬草を調合し窮地を凌いだという伝説から毎日100種類の薬草を嘗めて薬として使えるものを人々に伝えた伝説など様々です。

神農本草経はこの神農にあやかって作られた書物で、誰がどの時代に作ったのか詳しいことは分かっていません。

更に神農本草経の原本は散逸してしまいましたが、原本を引用した書物が見つかり、そこから復元本などが作られました。

その気になる内容は1年と同じ日数である365種類の植物・動物・鉱物が薬として紹介されていて、人体に作用する薬効の強さによって以下のように種類分けされています。

  • 下薬125種類
  • 中薬120種類
  • 上薬120種類

この分類方法は「三品分類」と呼ばれていて、平成21年6月1日より施行された改正薬事法でも同じような分類をされています。

中でも特徴的なのが同時に配合してはいけない薬物や同時に配合することで効果を引き立て合うものなども事細かに記載されていた点でしょう。

更には配合に注意が必要な薬物の効果を無くす組み合わせや薬効が無くなるものまで記載されています。

これは現代医学にも通じているもので、西洋医学の配合禁忌に相当します。

毒として扱われてきた素材ですら利用していて、薬物(毒)の効果を無くすものを配合して毒を弱めたものも漢方薬として使用していました。

しかし、病気が手遅れになれば漢方薬を処方しても効果はなく、早期治療の必要性を明記しています。

漢方の日本伝来

では日本へ漢方が伝わったのは何時の事なのでしょう。

漢方が日本へ伝わったのは奈良時代のことで、漢方薬を日本へ持ち込んだのは唐の僧侶「鑑真」です。

鑑真は日本に戒律を伝えるために日本へ渡りますが、なんと5回も失敗してしまいます。

この度重なる失敗で失明をしてしまいますが、日本へなんとか渡ることに成功します。

そして漢方を日本へ伝え、その後の平安時代に日本向けの漢方医学書「医心方(いしんぼう)」が丹波康頼(たんばのやすより)により纏められます。

全30巻もあるこの書物は療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されています。

歴史的に見ても非常に重要な書物で1984年に国宝となり現在は東京国立博物館が所蔵しています。

現在の漢方は日本で成長したもの

日本
現在主流となっている漢方は実は日本育ちの技術です。

というのも、中国との交流は頻繁に行われることがなく、漢方は日本で独自の成長を遂げたのです。

そのため漢方は中国生まれ・日本育ちという言われ方をしています。

日本の風土や環境、体質など日本人に特化した日本人のための漢方は現在でも使われている素晴らしい医学なのです。

そんな漢方ですが、実は明治時代に一度衰退の一途を辿ったことがあります。

その内容を次で解説します。

明治時代の漢方衰退

1972年に明治政府は学制と呼ばれる制度を制定し、西洋医学を中心とした新しい教育制度を整えました。

1874年には医制を制定して西洋7科に基づく試験や医業の開業許可を制度化していきます。

西洋医学を中心とした医制改革を懸念した浅田宗伯(あさだ そうはく)は「漢方六賢人の会合」を開催します。

これは浅田宗伯を含めた漢方に精通している6人の有識者による会合です。

そして漢方専門病院の設立や漢方存続運動の活動母体となった「温知社」の設立など様々な対策を講じます。

しかし努力は実らず明治政府は1883年に国家試験に合格しないと医業開業許可を与えないとする医師免許規則を出します。

そして西洋医学を主流とした医制が始まり、漢方は絶滅の危機に瀕してしまいます。

昭和時代の漢方復興

昭和時代に入るとほとんど見られなくなった漢方ですが、一部の医師や薬剤師などの間で使われ続けていました。

1910年に和田啓十郎という人物が西洋医学ではなく漢方が総合的な治療に適していて、医療の根幹に据えるべきだと主張した医療論の「医界之鉄椎」を発刊します。

さらに1972年には湯本求真が「皇漢医学(全三巻)」を発刊します。

湯元求真は漢方医学が優れていると言うことを記し、自身の医業を通して証明していきました。

その影響で多くの医学者が湯本求真を師と崇めて漢方を日本中へ広め、現代漢方医学の礎を築いていきました。

湯本求真はまさに漢方を復活させた一番の功労者というわけです。

漢方の現在

日本
では漢方は今どれほど活躍しているのでしょう。

2011年に実施された日本漢方生薬製剤協会の実態調査では漢方製薬を現在使用していると答えた医師はなんと89%にも上っています。

2008年にもすでに83.5%でしたので、年々漢方を利用している医師は増加している傾向にあります。

これは西洋医学では病名が付けられず解決できない「未病」の存在が大きいと推察されます。

現代は戦争もなく、滅多に外傷を負いませんよね。

しかしデスクワークや食生活の乱れなどが乱れが引き起こす現代病が増えています。

なんとなくだるい、肩こり、腰痛などその症状は様々です。

そんな未病に対処できる漢方の需要が高まっているのです。

西洋医学では解決できない未病をお抱えの方はぜひ漢方を試してみてください。

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記事執筆・監修

漢方薬剤師/薬膳料理家/国際中医師/国際中医美容師

大久保 愛

「アイカ製薬」代表取締役。
秋田の自然で薬草や山菜を採りながら育ち漢方や食に興味をもつ。薬剤師となり中国の北京中医薬大学で漢方・薬膳・東洋の美容などを学び資格を取得。漢方薬局、調剤薬局、エステなどの経営を経て漢方・薬膳の専門家として商品開発・ライティング・企業コンサルティングなどに携わる。

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