科学はどこへ行く?
科学とテクノロジーの関係は切れることなく、研究者たちの素材となってきました。科学は、単なる「ユニークソリューション」なのか?先人が築きあげてきたものの中で、多元的に相対化されてこそ、科学は、その力を発揮するといいます。科学が向かうその先と向かわなかった道跡を考えます。
真実(理)はいつも…
そんな名台詞が生まれるよりも、はるか昔から、人々は、すべての答えが科学によって成されるものだと考えてきました。遡れば、それは宗教の問題に行き着くと言われています。「エジプト人モーセ※1」の中では、なぜ多神教の国から一神教の伝道者であるモーセという存在が誕生したのか検証されています。
もともと多神教の国であるエジプトでしたが、たまたま複数のうちの1人のファラオが、自分が唯一の神であると言い切り、ほかのファラオを否定し始めたのがことの発端です。アスマンは、ユダヤの指導者のモーセが、そのファラオの考えを受け継いだのではないかと考えました。そこで受け継がれたのは、「自分と違う相手は間違っている」という思想であり、つまり、相手と自分の間に区別を立てることです。
これをモーセの区別と呼ばれています。一神教的な考え方が、このモーセの区別によって成り立ちます。イスラム教もユダヤ教も、カトリックもプロテスタントなどのキリスト教の宗派も同じです。
一神教の考え方を持つヨーロッパの人々にとって、「神の前に心理はひとつ」という解釈はごく自然であり、当然「科学の前にも真理はひとつ」といいます。
※1 ヤン・アスマン 著
日本の科学のクオリティ
科学が真理に直結するという信仰は、キリスト教の影響が少ない日本でも疑問なく存在しています。その原因は、近代化にあるといわれています。
明治初期、日本人は西欧の仕組みをコピーしましたが、当時のヨーロッパで力を持ち始めていたのが“科学”という名のものでした。西欧では、啓蒙主義者の影響でそれまであらゆる場面の基礎を支配してきたキリスト教的な枠組みが棚に上げられ、それに代わる真理体系として科学という存在が徐々に制度化されていきました。
19世紀には、キリスト教が占めていた場所が空き、科学者たちが「自分たちのやっていることこそ唯一の真理だ」と言えるほどの余地が出てきたのです。
そのタイミングが明治の初期と重なって、日本はそれを真似るようになっていったと言われています。
今の科学の根幹にあるのは“物理”だと思われていますが、明治の日本においては、物理学ではなく進化論でした。大森貝塚の発見で知られる科学者のエドワード・S・モースが原因だといわれ、明治の知識人のなかで芽生えた科学に対する信頼は、モースが教えた進化論をその最初として始まりました。
そして、第二次世界大戦での日本の敗戦が、日本人の科学への信奉を決定的にしました。日本国民が何ひとつ武器を持たなかった一方で、米国は原爆により圧倒的な勝利を手繰り寄せました。
この「竹槍と原爆」の対比は、日本人にとって大きなトラウマとなりました。矛先は「科学・技術の欠如」となり、これは右翼・左翼を問わず完全一致した考えとなってゆきます。
もちろん、戦後の生活の貧しさも大きく影響し、これを脱却するために傾斜生産方式によって全国の炭鉱に資金が注ぎ込まれました。石炭の採取には、高度な技術を必要としたため、国の政策に基づいて企業にも大学にも莫大な資金が注ぎ込まれました。
それ以外にも、農業など生産技術を徹底的に追求する政策が進められ、原爆を可能にするような物理学と十分な生産を可能にする技術工学に国全体が取り組みました。
歴史を振り返ると、日本では科学と技術の発展は分かち難いものでしたが、ヨーロッパとは事情が異なります。欧米ではエンジニアリングが職能であって学問でない。ずっとエンジニアリングは、入り込めませんでした。
日本では、エンジニアリングは「工学」と訳され、技術開発が大学に組み込まれました。東京帝国大学は、世界で初めて工学部をもつ大学となりました。
しかしながら、現今、日本の大学では、科学研究費を申請するときに、研究が社会にどう役立つかを書かなければ書類は通りません。これは、日本で理学と工学がくっついてしまっている悪弊といわれています。
理学と工学がコラボレイションして、社会をイノヴェイトするという発想が幅を利かせすぎていることが気がかりです。